
当たり前と思うことでも体験がなければ本質は分からない
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はじめましての方ははじめまして、そうで無い方はおはらーな☀️
みそらーなの記事だよ。
今日はタイトルにある通り、そりゃそうだ。って分かることでも、意外と体験が伴わないと本質は分かんないって出来事を思い出したので。
意外と文言で伝えられる情報って少ない。例えば転んで擦りむいた痛みを人にどれ程伝えられるだろうか。
痛いと言うのは容易に想像がつく。それはそうだろう、擦りむいてたりしたら見ただけで痛くなる。
だが、その痛みは鋭痛だろうか。或いは疼くような痛みだろうか。それはどれだけの言葉を重ねようとも、体験したことのある人にしかきっと伝わらない。
前置きが長くなったね。端的に言うと、この間、車に轢かれました。轢かれたって言っても足を踏まれた程度なので、何メートルも吹っ飛ばされたとかそういうヤバめな体験では無いです。痛いのには変わりはないんですけどね。
その事故(?)の経緯について。
その日、買い物帰りで車の後部座席に座ってたんです。
んで、着いたので荷物の整理しようと降りた瞬間に、ドライバーになんか理由あったのかは分からないのですけど、車が前進したんですよね。それで後部タイヤにうちの足のアキレス腱あたりを轢かれたって言う、ちょっと珍しいパターンの事故。
幸い軽傷で済みましたけどシンプルな痛みとしては結構なものでした。そら4点接地とはいえ1tあるものに巻き込まれる形で踏まれたんで、痛いに決まってます。
でも、痛いのは伝わると思いますけど、その痛みを具体的に他の人に伝えようとするとすごく難しい。大きな面で捻られるような痛みって、鈍痛と言えば鈍痛なのだけど、割と鋭痛でもあって。
しかも、その痛みはどんな言葉を選んだとしても体験した本人か類する体験をした人にしか分からないんですよね。
車に轢かれて痛いというのは誰が考えても当たり前のことだけど、どれ程痛いのか分かるのはそれを体験した時だけなのかもしれないなって、その時周囲の反応とかを見て思いました。
痛みに限らず、体験を通さない、言葉だけの共通認識を持つのはとても難しいです。仕事でもプライベートでもね。常識とか当たり前に頼りきらず、体験をすることって大事だなってことを、今日思い出したので今回のテーマにしました。
まぁ個人的には創作のネタになるかなぁと思ってたので、こういうところで使えてちょっと美味しいなとは思わなくもないんですけどね。
でもみんなはそもそもそんな怪我しないように気をつけようね!
それでは本日はここまで。
お相手はみそらーなでした。
またね!